【ユーモアとウイットの違い】

ユーモアとウイット。何となく分かっているようで、違いを説明できません。
その違いを・・・

ポケットジョーク2(男と女)の後書きより


『ユーモア』と『ウイット』。
両方ともジョークには欠かせないエッセンスです。
単に可笑しければ人は笑います。
例えば、人がよそ見をしていてカンバンにぶつかったらそれを見ていた人は笑う事でしょう。
しかし、それは『ユーモア』なのでしょうか?それとも『ウイット』なのでしょうか?
いえ、そのどちらでもありません。
よそ見をしていてぶつかったのは、単なる失敗であり、傍目から見れば滑稽ではあるものの、笑わせるために取った行動ではないからです。
そう、ユーモアもウイットも、人が意識しておこなう「おかしさ・面白さの表現方法」だから、単なる失敗による滑稽さに使うには相応しくないのです。

では、『ユーモア』と『ウイット』の違いは?
そう問われたとき、違いをキチンと説明できるかと言われれば、大抵の人は言いよどむのではないでしょうか?
私はユーモアは面白い事(を言うセンス)、ウイットは皮肉っぽい笑い。
なんとなく、そんな風に考えていました。

しかしある時、角川文庫のポケットジョーク2の見事な後書きを読み、「なるほど!」と納得しました。
さて、ここでそれぞれの語源を見てみます。

ユーモア(humour)は元々ラテン語を語源とし、いつしか「気質」を意味する使い方がなされていた。
そしてエリザベス王朝時代の喜劇作家ベン・ジョンソンが描いた登場人物達はその強烈な「気質」により数々の道理に外れた行動を取った。
それからユーモアには「滑稽諧謔」の意味に近づいた。英語のユーモアが今日の「ユーモア」を意味するようになったのは一八世紀以降の事である。

ウイット(wit)は元々「知性」を意味した。そして知性の一面である「機知」を意味するようになった。

ポケットジョークの後書きから引用すると、
『同じ笑いの表現能力でありながら、ユーモアとウイットは性格が違う。
もう一度、辞書の定義を見てみよう。
ユーモア:滑稽な物を見つけ出し、表現し、また、それを
楽しむ能力。
ウイット:物事の不条理を感じ取り、皮肉、風刺などによって巧妙に
短評する能力。

ウイットの笑いは批評の笑いである。ユーモアの笑いは傷を癒す笑いなのだ。
ウイットはだしぬけで人の意表をつき、しばしば冷笑的である。
これに対しユーモアは、のんびりとしていてせわしさや悪意がない。
ウイットには肺腑をえぐる鋭さがなければならないが、ユーモアには心の傷をそっと包み、癒してくれる優しさが必要なのだ。
ウイットは知性に対する挑戦だが、ユーモアは暖かい同情である。』

そう。ユーモアは自分も楽しみ、人を楽しませる心であり、ウイットは知性による笑いの刃なのです。
同じ事象でも、ユーモアとウイットではそれを見つめる視点が違うのです。

では、ここで二つほどジョークをご紹介します。
どちらがウイットで、どちらがユーモアか・・・いえ、これ以上の言葉は蛇足と言うものですね。

☆政治批判?

ナチス全盛期のドイツの街角の喫茶店で男達が休憩していた。
ある男はいかにも失望した様子で首を振った。
ある男は深いため息をついた。
ある男は黙って天を仰いだ。
もう一人の男が慌てて言った。
「おい、こんな所で政治の話をするな!ゲシュタポに掴まるぞ!」

☆ヒトラーとゲッペルス

美人の妻が浮気をしているのではないかと疑いを抱いたゲッペルス。
ある晩、妻が寝ている時にケジラミを妻の局部いっぱいに振りかけておいたのであった。
翌日。
驚いたことに総統官邸での作戦会議の間中、ゲーリングを始め、ヒムラーもヘスもボルマンまでもが股間を掻きまくっていたのである。
激怒したゲッペルスだったが、相手はナチスの最高幹部達であり同僚でもある。
彼はヒトラーに相談してみることにした。
「ふむ・・・。奥方が密通とは,穏やかでないのう」ヒトラーは同情を込めてゲッペルスの肩に手を置いた。
「それにしても,どうしてそれが分かったのかね?」
そう言うや、ヒトラーは口ひげを痒そうに掻きむしったのであった。


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